第13回『嫌われる勇気』編( 13 )

最後に、とても好きだった考え方を書いて終わります。
それは、「人生は点の連続であり、連続する刹那である。『いま、ここ』に強烈なスポットライトをあてて生きなさい」という考え方です。
「過去にどんなことがあったかなど、あなたの『いま、ここ』にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど『いま、ここ』で考える問題ではない」
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.271)
「人生とは点の連続であり、連続する刹那である。そのことが理解できれば、もはや物語は必要なくなる」
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.272)
「ライフスタイルは『いま、ここ』の話であり、自らの意志で変えていけるもの」
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.272)
「いま」とは、わたしが見てきた過去や、わたしそのものを超えた、歴史の存在の証でもあります。奇跡のような末裔は、たとえ嘘の重なりであったとしても、ほんとうです。
それは、過去のしがらみや、未来にとらわれる必要がある、というわけではありません。過去や未来ですら、今の自分に介入させてはならないということです。完結した人生の中で、わたしが生きるべきは、過去でも未来でもなく「いま、ここ」であること。

【そして羽ばたくウルトラソウル】
(B'z『ultra soul』から引用)
『嫌われる勇気』についてのエッセイでは、全編を通してB’zの『ultra soul』の歌詞を一部引用させていただき、合間合間に画像とともに挟んでお送りしてきました。
ウルトラソウルが輝くのは、戦うのは、羽ばたくのは、どんなときなのだろう。
この曲では、言葉や歌声やギターの音色によって、ウルトラソウルが輝いたり、戦ったり、羽ばたくにいたるまでのことが語られています。
その様子は、本書を読み、アドラー心理学に触れ、「共同体感覚」という規範的な理想について考えているときの自分の心境と重なりました。
初回の記事で、本書を開くまでのことを長々と語ったのは、その過程そのものがこの読書体験の一部であり、『嫌われる勇気』的でもあり、『ultra soul』的でもある、と思ったからなのでした。
有名な曲だったのに、何度か耳に入ってきたことがあるだけで、ちゃんと聴いたことがなく、今ここでこうして出会えたことを、心から嬉しく思っています。
この世界には、ほんとうにたくさんの人がいて、ほんとうにたくさんの歌があって、絵があって、本があります。
受け取る方としても、作り手としても、さすがに多すぎてうんざりすることがありますが、すべてがやさしさのひとつであるならば、きっと、いいことなのだと思います。なにをしても二番煎じみたいになってしまう気がすることも、AIがすごい技術の絵を描いたり曲を作ったりしてしまうことも含めて、いい時代、なのかもしれません。
…しかし、この文章を書いているさなか、あっけなく躓きました。久しぶりにすごく痛いです。笑えてきます。転ぶときには、ほんとうに呆気なく転ぶのですね。視界が狭まって、よくわからなくなってきて、気づいたらまた、真っ暗な部屋に帰ってきていました。
二万字を超える文章を長々と書いてきたけれど、わたしはなにを学んだのでしょう。ここまで読んでくれたあなたに、その時間だけの対価を受け渡せたのでしょうか。けっこう長い時間を使って考えてみたけれど、わかりませんでした。
『嫌われる勇気』を初めて読んだとき、わたしや「青年」のような人の中でも、この本を手にとることがないであろう人のことを「助けられるのではないか」と思って、テンション高めでエッセイを書き始めました。もはやそれは、恥ずかしい動機です。
八方塞がりでつらかった時期を抜け、舞い上がっていたのですね。アドラー心理学とB’zがあったら、無敵なような気がしました。今は、「人生に無敵などない」ということだけ、深く胸に刻まれています。
わたし一人での企画であれば、これらの文章を世に出すことは諦めていたと思います。しかし、すなば書房さんとご相談の末、掲載していただくことにしました。「他者信頼」という言葉が浮かんできたからです。都合よく思い出しているだけかもしれませんが、今はそれに従ってみたいと思いました。なんにも変われていなかったけれど、抗うことだけは、きっとできる。
また本を読みたいです。でも、しばらくは読めないかもしれない。どうだろう。
本について考えたり、また開くことができたら、エッセイを書いてみます。それがいつになるのかは全然わかりませんが、また、あなたと、ばったり会えたらうれしいです。
ここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。

【『嫌われる勇気』編おわり】
中村(すなば書房):自分の現状に重なるところがあって途中視界がぼやけました。「いま、ここ」に熱いくらいのスポットライトをあてて生きたいですね。
市村:弱さはどうにもならないのかもしれないけど、抗うことをあきらめるのだけはやめたい。何度だってスポットライトを当てなおそう。まさか自分の書いたエッセイがこんなに自分を助けてくれるとは思いませんでした。今、頭の中にでかでかと「ありがとう」が浮かんでいます。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/
第12回『嫌われる勇気』編( 12 )


【ホントだらけあれもこれも その真っただ中 暴れてやりましょう】
(B'z『ultra soul』から引用)
これまで触れてこなかったけれど、アドラー心理学の中で重要なアプローチのひとつである「勇気づけ」のことも、少しだけ書いていきます。
実は、前回の記事でわたしが書き連ねたこの文章の中にわたしが思う「勇気づけ」を潜ませていました。
「アドラー心理学では、わたしの言い訳や理屈には耳を傾けないでいてくれます。
『あなたがそこにいるのは、そこにいたいからだ』
『あなたがそこにいたくないと願うなら、今すぐにそこから出ることができる』
と言います。そして、
『サポートはしてやるから、がんばってみたらいいんじゃない?』
とも言います。」
これはだいぶ雑な表現なのですが、この文章の中での勇気づけとは「サポートはしてやるから、がんばってみたらいいんじゃない?」の部分にあたります。
「自分ができることは、相手のことをほんとうに想うことだけである」と述べましたが、実はもうひとつ、できる(かもしれない)ことがあります。それが「勇気づけ」です。
本書では、
「横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では『勇気づけ』と呼んでいます」
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.202)
と説明しています。
大前提に課題の分離があり、介入はしない。そして、ゆるす・ゆるされるという縦の関係ではなく、対等な横の関係がある。その上で、上から命令したり、叱ったり褒めたりするのではなく、本人に自信を持たせるという目的のもと、「自らの力で」課題に立ち向かっていけるように働きかけること。そういうアプローチのことを「勇気づけ」と読んでいるそうです(p201参考)。
本書では、度々こんなことわざが出てきます。
「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」
本書を読み、勉強しているうちに、わたしがやさしいと感じるものとは、まさにその姿なのかもしれないと気づきました。
具体的に言えば、あきらめること…課題の分離。そして、水辺まで連れていくこと…勇気づけ。そして、まだ完全な理解にはいたっておりませんが、共同体感覚を規範的な理想とする姿勢。
この気づきはとても大きいものでした。
自分が「やさしい」と感じるものとは、どういう姿をしているのだろう、と、長年考えていました。
他者が「やさしい」と謳っているものに触れたとき、想定外に傷ついたことがあります。そんなときいつも、誰かにとってのやさしさをそのままの形で受け取れない悔しさと、その輪に入れないさみしさや、自分は異常なのかもしれないという強い不安を感じてきました。自分を保つために、それを「やさしさではない」と決めつけたり。
しかし自分自身も他者に向けて、同じことをしているであろうこと。その無自覚な加害性の、自覚だけはありました。
でもその意識は、都合が悪くなれば簡単に忘れてしまいます。忘れたふりをしてしまいます。自分だけが被害者となったような気分になると「人生の嘘」を、まるでほんとうかのように語ることができ、楽だったのです。
「ほんとうのやさしさ」ってなんだろうかと考えてみると、「裏返らないもの」とかではなく、多分、どれもほんとうなのだろう、と、思います。
たとえば、本書では徹底的に課題の分離をし、介入しない・させないということを語っていますが、誰かにとっては介入こそがやさしさであり、勇気づけは暴力となる場合も、わたしはあると思います。
すべてのやさしさはほんとうである、ということは、ずっとぼんやり思ってきたことではあるのですが、この本を読んで、確実なものとなりました。受け取る人によって、姿を変えたり、裏返ることもある、というだけで、それが嘘であることにはならない。「わたし」が受け取ったときに、そのままの姿で届くものだけがほんとう、なわけではない。
なぜなら、「わたし」と「あなた」はちがうから。「ちがう」ことを受け入れて、「わからない」ことを受け入れてこそ、対人関係は始まるものだから。
しかし、上で述べたように、やさしさをふりまくことは、知らぬ間に他者の心をナイフで刺していることでもあるということ。それも事実であり、むしろそれは、できるだけ自覚しておかなければなりません。
たとえば複数人でひとつのものをつくるとき、わたしはその場合においてのみ、ある程度の「介入」は必要だと考えています。意識的に、自分が思う「やさしさ」から離れた行為をしなければなりません。そういうとき、その自覚とコミュニケーションは大切です。
だからとにかく、「わたし」におけるやさしさとはなんなのか、知る必要がありました。
こうして考えてみると、結局、それがほんとうか嘘か、なんていうことは、それほど重要ではないように思えてきます。

それをあきらめることは、それでもわたしにはできません。本書に出てきた言葉を使うなら、「傾向性への抗い」あるいは「優越性の追求」なのかもしれません。
そのさなか、きっと加害は避けられません。ならばやはり、なるべく自覚して生きていきたい。
そしてそこには、はっきりとした境界線があるわけでもないということも、おぼえておきたいです。
これはやさしい、これはやさしくない、とする前に、もっとぼんやりした部分、識別できない部分にこそ注意を向けることが、実はいちばん大切なのではないかと考えます。抽象的になってしまいましたが、わたしたちは敵ではないということを念頭において、相手がなにを語っているか、静かに耳を澄ませていたいということです。喧嘩はそれからです。
ちなみに本書では、「他者を仲間であるという意識を持ちましょう」と語っていますが、ここも誤解していはいけない点です。
アドラー心理学における「仲間」とは、心の距離が近い大親友、みたいなものを指しているわけではありません。裏返ることがある「信用」の関係の他者、ではなく、無条件に「信頼」できる他者のことを指しています。
個人的には「仲間」という言葉には、友だちとか親友みたいな、親しいイメージとともに浮かんできてしまうので、その言葉を使うことに若干の抵抗があります。だから今は、「敵でも仲間でもない、 ただ『その人』として他者と対峙しよう」と解釈しています。
【第13回へつづく】
中村(すなば書房):饅頭を食べながら「やさしさ」について考えていたら夜になっていました。
市村:昨日は電車の中で「MOVE」(B'z)を聴いていてぽろりんと涙が。そしてしばらく前に自分が書いたというこの文章を読んで「ハッ!!」と。最近の自分の甘さに喝を入れてもらえたような気がしました。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/
第11回『嫌われる勇気』編( 11 )


【夢じゃないあれもこれも 今こそ胸をはりましょう】
(B'z『ultra soul』から引用)
一周目に読み終わったとき、分からないというか、腑に落ちない、モヤモヤが残ったような感覚がありました。
本書は、ひとつの物語としても読むことができ、感動や感傷があります。わたしはそれらに引っ張られ、重要である細部のことを忘れ、だんだん何にモヤついているのかもよくわからなくなりつつ、物語の結末を読み終えてしまったのでした。
ノートを取りながら注意深くふたたび読んでいくと、取りこぼしていた箇所や、歪曲して受け取っていた箇所があることに気づきます。
いろいろな言葉や、初めて知る考え方にたくさん触れていれば、その細部に目を向けたり、あるいは全体を知ろうとしていくうちに、どちらかが抜け落ちてしまうことは仕方がないことなのだと思います。
これは日常での他者との会話や、出来事全般にも言えることですが、本は、こうして何度でも読み返せるから、ありがたいものですね。
ここでの言葉による認識の歪みは案外深い溝であり、アドラー心理学の核にあたる部分ですら、異なる姿として映る可能性があるのではないかと思いました。
だから、ここで、わたしが誤って読んでしまったと思った部分について(今でも間違えはあると思いますが)書いていきます。
前々回「『共同体感覚』というゴールにいたるまで、アドラー心理学ではどのようなアプローチを提唱しているかということについても、本書では具体的に語られています」と書きました。
「自己への執着(self interest)を他者への関心(social interest)に切り替え、共同体感覚を持てるようになること。そこで必要になるのが『自己受容』と『他者信頼』、そして『他者貢献』の3つになります」
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.226)
これは「共同体感覚」を持つためには何が必要なのか、ということを、大きな流れとともに説明している文章です。ここで使われている言葉についても、本書では詳細に語られています。

つまり、対人関係のゴールである「共同体感覚」を得るには、「自己受容」と「他者信頼」と「他者貢献」というアプローチが必要であるということです。
ちなみに、この3つの要素は円環構造として結びついているもので、ひとつとして欠かすことはできないそうです(同書『 嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.242参考)。
この「ひとつとして欠かすことはできない」という点をしっかり理解できていれば、共同体感覚、あるいはアドラー心理学についてを、ある程度適切な姿で受け入れることができるのだと思います。
しかし、わたしが一周目に読んでいたとき、主に「他者信頼」と「他者貢献」について、具体的にはその言葉の響きに、違和感をおぼえていました。
「他者信頼」に関する箇所は本書ではだいぶ後半にあたるページなのですが、読んでいるとき、ファイティングポーズを構えていた序盤ぶりに「なんか腑に落ちないぞ!」と引っかかりました。急に説教じみたことを言いはじめたぞ、と。
最初に感じたうさんくささを、またここでも感じてしまったのです。一周目に読んでいたときは、その「なんか嫌な感じ」に引っ張られて、聞く耳を持たず、心を少しだけ閉じて読み進めていたのかもしれません。
ここでも「青年」が似たようなことを本の中で言ってくれています。
「あらゆる他者を信頼し、どんなにだまされても信じ続けろ、お人好しのお馬鹿さんであり続けろというわけですね? そんなもの、哲学でも心理学でもなく、宗教家のお説教ですよ!」
(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.233)
青年ブチ切れ、わたしも久しぶりにブチ切れです。
これに対して「哲人」は、
「ここは明確に否定しておきましょう。アドラー心理学は、道徳的価値観に基づいて『他者を無条件に信頼しなさい』と説いているわけではありません。無条件の信頼とは、対人関係をよくするため、横の関係を築いていくための『手段』です」
(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.233)
と語ります。そしてこうも付け加えます。
「もし、あなたがその人との関係をよくしたいと思わないなら、ハサミで断ち切ってしまってもかまわない。断ち切ることについては、あなたの課題なのですから」
(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.233)
他者信頼とは、「道徳的価値観に基づいて説いているわけではない」ということ、そして「横の関係を築いていくための『手段』 でしかない」ということ。この部分は絶対に忘れてはならないポイントであったと今は感じます。

【祝福が欲しいのなら 歓びを知り パーっと ばらまけ】
(B'z『ultra soul』から引用)
その後に続く『他者貢献』については、こちらも一周目に読んでいるとき、自己犠牲を勧めているような印象をおぼえました。
また、そもそも承認を求め生きてきた身からすると、他者から何かしてもらうことは、時として暴力となります。それを知っていたから、安直な貢献には注意を払って生きていたのです。
ここで語られている貢献もその安直な貢献に思え、これはまったく肯定できる要素ではない、と、当時は感じたのでした。
『他者貢献』とは、
「仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすること」
(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.237)
と説明されていますが、「青年」はここでも引っかかってくれていました。自己犠牲的な生き方を推奨しているのか、と。
しかしここで「哲人」は、こう語ります。
「他者貢献とは、『わたし』を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ『わたし』の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです」
(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.238)

『他者貢献』は、あくまで「自分のため」であるということ。だから、自己を犠牲にする「必要」がないのだと。
著者のひとりである岸見一郎さんは別の書籍でこうも述べています。
「アドラーは、しかし、自己犠牲を勧めているわけではない。たしかに自分の人生を他者のために犠牲にする人はいる。アドラーはこのような人のことを『社会に過度に適応した人』といっている(『子どもの教育』 一六三頁)。もっともこのことは自己犠牲的な行動や生き方を批判しているわけではなく、たしかにそのような行動や生き方は美しいのだが、そのことを他の 人に勧めることはできないということである」
(岸見一郎『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』 p.27)
そして先に述べたように、「自己受容」と「他者信頼」と「他者貢献」は円環構造になっていて、ひとつとして欠かすことはできないものである、という点。
繰り返しているようですが、「他者貢献」をするときには「自己受容」と「他者信頼」は必須であったということです。ただそのままの自分を受け入れ、ただそのままの相手を受け入れ、無条件に信頼できたときにこそ、他者貢献はなされるものなのだと。
その関係性の中でなされる貢献とは、安直な貢献なのでしょうか。相手がそれを暴力だと捉えるかは相手の課題であり、自分ができることは、相手のことをほんとうに想うこと。
しかし実際の相手のほんとうの気持ちはわからない、だからここでもあきらめは必要で、対人関係はたしかに課題の分離から始まります。
わたしは水に浮かんだ言葉の表面を拾っては、そこでの違和感に悩まされていたのだと気づきます。

そしてもう一つ、『他者貢献』にまつわる、個人的にはとても重要であると感じた認識があります。
「他者のことを『行為』のレベルではなく、『存在』のレベルで見て行きましょう」
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.209)
「われわれは『ここに存在している』というだけで、すでに他者の役に立っているのだし、価値がある。これは疑いようのない事実です」
(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.209)
たとえば他者を「行為」のレベルで見ていたら、他者に貢献していない人のことを、どこか否定的に捉えてしまうかもしれません。それは、かつての自分が潜在的に抱いていたような、差別的な倫理観にも繋がりかねないのです。
しかし、そもそも他者を「行為」のレベルで捉えているうちは、「自己受容」も「他者信頼」もなされていない段階であるといえます。「共同体感覚」からは遠いところにいる。
「他者のことを『存在』のレベルで見よ」とする姿勢は、本書の中でも特に好きな考え方です。好きなのに、「貢献」という言葉のイメージから、どうしても「行為」のレベルで想像してしまい、違和感が生じていたのでした。
最初はボタンの掛け違いのような些細な認識の歪みでしたが、結果としては大きく異なる結末があらわれることになります。それがその人や周囲の人によい作用を及ぼすのであれば良いけれど、そうでないのなら、認識の歪みはできるだけ正していくよう努めるべきだと感じます。
アドラー心理学における言葉の受け取り方について、岸見一郎さんはこうも述べています。
「言葉の定義を覚えるというより、文脈の中でどのような意味で使われているかに注意を向けることもとても大切であるとも考えることができる」
(岸見一郎『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』 p.16)
「本を読み、ただ言葉の意味を理解してもあまり意味はないのである。書かれていることは理解できるだろうが、その理解は、いわば頭の中に地図を思い描くことでしかない。実際にその地図に従って、歩いてみるしかないのである。実際に地図に記されている通りに歩いてみてこそ意味がある」
(岸見一郎『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』 p.16)
今回、本書やその他の書籍を読んでいて、言葉を受け取るときには、とにかく静かに耳を傾け、全体を見ること、そして言葉の内側にあるものを想い、目を閉じ、耳を澄ませ、この手で受け取ることが大切なのだと学びました。
信頼とは無条件に結ぶものですが、一方的なもの、軽薄な態度では、成立しないのだと思います。
ここで鍵となるのが「オープンマインド」であり、今回の読書体験を通じてその重要さを思い知りました。
徹底的に喧嘩をしてやるという姿勢は、本に限らず、他者と関わるとき、そのときによるものではありますが、ある場面では誠意として必要なのだと思います。
【第12回へつづく】
中村(すなば書房):貴重な読書体験の共有ありがとうございます…!市村さんの心の揺らぎが伝わってきます。読後しばらく噛み締めていました。
市村:東京でも雪が降りました。
ココアを飲み、眺め…。緑茶を飲み、眺め…ていたら、日が暮れました。ボォーっとした冬の1日でした。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』
著者:岸見一郎
発行元:アルテ
初版発行:2006年6月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/
第10回『嫌われる勇気』編( 10 )


【希望と失望に遊ばれて 鍛え抜かれる Do it】
(B'z『ultra soul』から引用)
本エッセイは更新毎に書いているのではありません。『「嫌われる勇気」編』は、2024年11月頃に書き終えた文章を、分割して連載しています。「まえがき」でも述べましたが、もともとはひとつの記事で完結する内容の文章にするつもりだったものの、気がつけばすごい文字数となってしまったため、このような形にて発表させていただいています。
まさか、あのとき書いた文章を分割すると、余裕で連載第10回目を迎えてしまうなんて。文字数もそうですが、なぜか今までのわたしの集大成のようになってきていることも。ややこしい自分が本についてのエッセイを書き出したらこういう方向にいくのかと、自我自驚き(じがじおどろき)です。
それに、『「嫌われる勇気」編』が終わった後、わたしは他に言いたいことなんてあるんだろうか、とも思います(不定期連載なので、言いたいことができたらまた書かせていただこうと思います)。でも、出し惜しんでいると忘れてしまいそうなので、もう、全部書いてしまおう、と思います。
『「嫌われる勇気」編』の連載が始まってから、前半では『嫌われる勇気』に出会うまでのことを、後半では出会ったときのことを書いてきました。
第10回目からは、出会ったあとに改めて感じたことや、考えたことを中心に書いていきます。
最初に『嫌われる勇気』というタイトルを見たとき、その語呂に嫌悪感がありました。そんな言葉が大きく印刷されたこの表紙は、喧嘩を売っているように見えます。なんだか腹が立つので、できるだけ触りたくないタイプの本です。
このタイトルに否定的な印象を抱いたのは、「積極的に嫌われましょう」とか「他者と対立して徹底的に我が道を歩みましょう」とか、他者に耳を傾けないことや、対立することを無責任に推奨しているように思えたからです。
しかし、この本における「嫌われる勇気」の意味とは「他者から嫌われるかもしれないということにとらわれず、最終的には社会との調和を目標とし、目の前の坂を登っていこう」と、 対立よりもむしろ調和を強く主張していると解釈できます。
実態がどうであれ、違和感を抱かせるような言葉は今のわたしでも好きではありません。しかし、表面から受けた印象だけで、それを知ったような気になっていたのは、もったいないことだったなと、今となっては感じます。
そして、きっと今までもそういう視点から、多くの出会いや糸口を自分でバッサリ切っていたのだろうと気づきます。そこに未練や後悔はないのですが、しかし、八方塞がりとなったのは、それが原因でもあったということです。
【第11回へつづく】
中村(すなば書房):毎週たのしく更新の準備をさせていただいている本エッセイも、ついに第10回を迎えました!『ultra soul』引用箇所が個人的にすきなフレーズでさらにうれしいです。
市村:ここ最近、「我に返るな/鈍くなれ/振り返るな/今を生きろ」という言葉を反芻しまくっています。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/
第9回『嫌われる勇気』編( 9 )

アドラー心理学では「共同体感覚」という言葉が出てきます 。
これは、幸福なる対人関係のあり方を考えるときの最も重要な指標となるものです。本書では、このように説明されていました。
「他者を仲間だと見なし、そこに『自分の居場所がある』と感じられることを、共同体感覚といいます」
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.179)
ここで語られる「共同体」の範囲はとても広大なもので、理解が難しい概念であるとされています。
ここで誤った認識をしてしまうと、アドラー心理学全般を歪んで捉えることになってしまうような気がしていて、だからわたしは本書を読み終えても勉強を続けています。
共同体感覚について、アドラー自身も「到達できない理想」であると認めているそうです。あくまで理想であると。その存在を考えていたとき、B'zの『RUN』に出てくる歌詞の
【約束なんかはしちゃいないよ 希望だけ立ち上る
だからそれに向かって】
(B'z『RUN』から引用)
この、煙のようなイメージの「立ち上る希望」みたいなものこそが「共同体感覚」なのかなと解釈しています。

対人関係において、「課題の分離」がスタート地点であるのに対し、「共同体感覚」はゴールであるとされています。 そしてそのゴールにいたるまで、アドラー心理学ではどのようなアプローチを提唱しているかということも、本書では具体的に語られています。
ちなみに共同体感覚は、アドラーが軍医として第一次世界大戦に参加したときに初めて披露したものとされています。
アドラーは戦争について「進歩と文化を救うために、廃止しなければならない人類最大の災い」(岸見一郎『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』 p.35参考)と語ったそうです。
また、本書では
「自由とは、他者から嫌われることである」
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.162)
と語られています。最初に読んだとき、わたしはまた「青年」と同じような反応をしてしまいました。(「ハァ!?」という感じですね)
自由とは「組織からの解放」ではなく「自分の生き方を貫くこと」なのだそうです。ここを読んでから、改めて考えていくと、アドラー心理学が「自由」を重要視する理由が少し分かってきました。
「人は世界から切り離して存在することはできず、どんな形であれ、世界に影響を与えないわけにはいかない」
(岸見一郎『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』 p.41)

【そして戦うウルトラソウル】
(B'z『ultra soul』から引用)
承認欲求の否定についても、トラウマの否定/目的論についても、 課題の分離や共同体感覚についても。また、断固として自由を強調する姿勢。アドラー心理学の断片をかき集めたら、また、 ゴールである「共同体感覚」と地続きになっているものとは、 きっと、「個人の幸福」です。
しかし、これは本書では語られておりませんでしたが、アドラー心理学における世界の捉え方をしたとき、その最終地点には、きっと「個人」の範疇を超えた、過去のしがらみから解き放たれた健全なる「社会」があるのかもしれないな、と、感じられました。
【第10回へつづく】
中村(すなば書房):気になったので「アドラー 軍医」で検索しました。アドラーという人間を知ろうとすると、「共同体感覚」についてもう一歩理解が深まりそうです。
市村:アナタトワタシデサア アシタノタメニ BANZAI!
テキモミカタモナイゾ カガヤクイマニ BANZAI!
先日はじめてB'zの「BANZAI」を聴いて衝撃でした。たまりませんね。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』
著者:岸見一郎
発行元:アルテ
初版発行:2006年6月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/
第8回『嫌われる勇気』編( 8 )


【祝福が欲しいのなら 底無しのペイン 迎えてあげましょう】
(B'z『ultra soul』から引用)
本書では、「社会学が語るところの社会の最小単位とは『わたしとあなた』である」と語られています。
勉強しているとき、こんな文章と出会いました。
「人は一人で生きているのではなく、他の人の間で生きている。一人では『人間』になることはできない。『個人はただ社会的な(対人関係的な)文脈においてだけ、個人となる』(『個人心理学講義』 p.123)のである」
(岸見一郎『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』 p.20)
生きている限り、わたしは社会という対人関係から逃れることはできないし、はぐれることもできない、ということ。長年わたしが漠然と忌み嫌っていた社会とは、存在しなかったようです。
アドラーは、その「逃れられない社会」があるからこそ、「すべての悩みは対人関係の悩みである」としたのだと思います。
また、アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方について以下のような目標を掲げています。
<行動面の目標>
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
<この行動を支える、心理面の目標>
①わたしには能力がある、という意識
②人々はわたしの仲間である、という意識
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.110参考)
ここでいう「自立」とは、「一人で生きていけるようになること」ではありません。他者からの承認を必要とせず、ありのままの自分を受け入れること、「自己受容」ができた状態をそう呼んでいます 。
また、「能力がある」という意識についても、ナルシスト的に過剰に自己を肯定せよという話ではありません。これも「自己受容」にまつわるものです。
「社会とは逃れられないものである」とすることは、わたしにとっては「あきらめること」でした。
ドアをあけてまず必要なのは、その「あきらめ」だったのです。あきらめられていなかったから、幻に承認を求めてしまっていたのでした。
また、あきらめた後、どのような気持ちで世界を見るかということについて、選択肢がいくつかありますが、アドラーは「調和」を目標としています。
社会との調和、そしてあきらめることについて、身に覚えのある出来事があったので、ここに書いてみます。

わたしは花の絵をよく描きます。
花屋で切り花を選んで買い、自宅で花瓶に生けて、観察して描きます。枯れて腐ったら、ゴミ箱に捨てます。
描いているとき、花がなにを思って咲いているのか想像しますが、どんなに想像しても、絶対にわかりません。それでもその一連の行為を、絵を描いている限りは続けていたいと思っています。
観察するとはなんなのでしょう。
最近は「わたしの目で対象を観て、捉え、想うこと」なのではないかと考えています。
花はなにも語らないけれど、わたしは猛烈に想っている。理解はできません、でもそれでいい。
自分にできるのは「ただ想うこと」だけであると、花が花であると認識すると同時に、あきらめているのです。振り返れば、花とわたしとの関係は、いつだって「あきらめ」から始まっていました。
その上でわたしは、身勝手にいろんな感情を抱きます。恋のようだと思ったり、愛のようだと思ったり、これは罪だと思ったり。 観察するほどに、鏡のように絵にあらわれます。
社会学が語るところの社会の最小単位を知ってから、わたしはこの「花とわたし」の関係も、同じく社会なのではないかと思えてきました。
花とわたしとの関係において、ゆるす・ゆるされる、という意識はありません。
花屋とわたしとのあいだには対価を支払うという信用の関係がありますが、花そのものとはありません。お互い、ただそこにいる。
そしてその花が何を思っているか分からなくても、思ったように咲かなくても、わたしはその存在をいつもうれしく思っています。
これをひとつの社会だと捉えると、わたしの想像する、もっとも理想的な社会であると感じます。
アドラーの掲げる「目標」についても、この小さな関係の上でのみですが、達成できているのではないかと思います。
花は人間ではないけれど、花とわたしとのあいだに流れるものは、やはり限りなく社会に近いものであると考えられます。
花以外のモチーフや、絵そのものとの関係においても同じように言えることではあるのですが、とくに花という生きものについては、人との関係以上に根源的な対話のようであるとも思います。
花を描く理由はいろいろありましたが、もしかしたら、人間であり続けたいという気持ちが強いのかもしれません。
花とわたしとの関係が「あきらめ」からはじまったように、対人関係もまた「あきらめ」からはじまるものだと、本書は語ります。
その具体的な考え方として、「課題の分離」というものが挙げられていました。
これは物事を「これは誰の課題か」という観点でとらえ、自分の課題と他者の課題を分離し、自分の課題には介入させず、他者の課題には介入しない、とする考え方です。
課題の分離については、あくまでわたしの場合はですが、B'zの『NATIVE DANCE』を聴いていて理解が深まった気がしました。
第4回のバスの中でのわたしの表情は、「課題の分離」と『NATIVE DANCE』が繋がったときの感動によるものでした。
『恋心 (KOI-GOKORO)』にもその要素を感じます。いや、もしかしたら、多くのB'zの曲には基本的な姿勢として「課題の分離」があるのかもしれません。
これは極端に解釈したものに過ぎませんが、わたしがわたしなりのやさしさを投げかけたこと、これはわたしの課題である。しかしそれを相手がどう思うかは相手の課題ということ、となります。
ここでわたしが見返りを求めたり、「思ったとおりに伝わっている」と思い込むことも、間違いである、ということです。
この考え方は、他者の課題に介入したがりな自分にとって斬新なものでした。しかし、実生活を送る上では、もう少し広い視野が必要だとも感じます。
ただ、これまで外に出て傷だらけで帰ってきたのは、「あきらめ」 ができていなかったからかもしれません。
【第9回へつづく】
中村(すなば書房):花を描くことについてのお話が聞けてうれしいです。この文章を読んだうえで、市村さんの花の絵をじっくり観察したくなりました。
市村:このエッセイで書いたことはほとんど忘れていましたが、こうして読み返していると振り返っているようで、わたしはアドラー心理学に触れてからスタートを切って、走り出していたのだと気が付きました。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』
著者:岸見一郎
発行元:アルテ
初版発行:2006年6月
『個人心理学講義:生きることの科学〈アドラー・セレクション〉』
著者:アルフレッド・アドラー
訳者:岸見一郎
発行元:アルテ
初版発行:2015年5月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/
第7回『嫌われる勇気』編( 7 )


【夢じゃないあれもこれも 今こそ胸をはりましょう】
(B'z『ultra soul』から引用)
「理屈」の正体が「嘘」だとあばかれ、わたしは蔦が透明に見える視点を知りました。その視点にてドアノブを回すと、案外簡単に八方塞がりの部屋から出ることができました。
しかし、やっぱり外は、大変です。
やさしさは、いろんな形や色をしています。その形が自分にぴったりあったとき、それを「やさしい」と受け取るのでしょう。
外はとにかくいろんなやさしさであふれかえっていて、混沌としています。
他者はわたしに、さまざまなやさしさを与えてくれます。わたしもわたしなりのやさしさを他者に与えようとがんばってみますが、わたしのやさしさは相手にとって「やさしい」と認識されていないような気がしてきました。
それでもこの想いはほんとうだから、許してほしい、と、傲慢にも、思ってしまうのでした。

本書で語られるアドラー心理学では、承認欲求を明確に否定しています。
他者の期待に応える人生を「誤ったライフスタイルである」といいます。言いすぎじゃないか?と思いましたが、その根底にあるのは「他者からの承認など、もともと必要はないのだ」 という考え方であり、そこには深く頷きました。
「他者の期待に応えるための人生とは、不自由な人生である」ともいいます。たしかにそういう生き方は、自由ではありません。でも、今の時代のこの国における「自由」とは、どれくらい重要なのだろう。ぬるま湯で生きてきたわたしは、もはや自由の大切さなど、おぼえていません。
わたしは、自分の部屋の中ですら、そこに存在することを「許してほしい」「認めてほしい」と願うような人間でした。チケットを買わなければ入場できない映画館でもなければ、ワンドリンク制の喫茶店でもない。家賃を払って借りている家の、部屋の中です。ここにいて大丈夫だと誰かに認めてもらわなければ、安心が得られませんでした。
「他者の気持ちが分からなく、無意識に攻撃してしまうような悪い人だから」「社会の役に立てず、きっと不要な人だから」存在を許されないかもしれない、と思っていました。
自分の気持ちを深く見つめていくと、人の価値を行動や浅はかな倫理観で決めつけるような見方をしていて、その点で差別的であり、攻撃的な態度であります。
これまでの自虐は、自虐ではなく保身だったのかもしれません。そこには漠然とした社会への敵意や憎悪や劣等感だけがあって、根底には「自分はそこからはぐれた存在であり弱い立場である」というコンプレックスが潜んでるように思えました。
そもそもわたしは誰に許してほしかったのでしょうか。
他者の気持ちがほんとうに分かる人間などいない。それでもうまくやっているように見えるから、自分だけが特別であると思い込んでしまっていただけではないのか。
そもそも「悪」はあるのか。社会とはどこにあるのか。あるいは、わたしはほんとうに社会からはぐれた存在なのか。絵を描くことは、ほんとうに自分一人がやっていることなのか。わたしが思いえがく敵とはどこにいて、誰なのか。
解剖していくほどに、わたしが憎んでいるらしいものの正体が、見えなくなっていきました。
「われわれは、たとえ神が存在しなかったとしても、たとえ神からの承認が得られなかったとしても、この生を生きていかなければなりません。神なき世界のニヒリズムを克服するためにこそ、他者からの承認を否定する必要があるのです」
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.137)
これは、本書の中でもっとも好きな文章となりました。
【第8回へつづく】
中村(すなば書房):過去に受けたバイトの面接で「他人の気持ちがわかりますか」と質問されましたが、いまでも、そんなものわかりやしないよ、と思います。
市村:クリオネ2匹が会話している漫画は、勉強ノートに「承認欲求」について学ぶために描いていたものを引っ張ってきました。
が、改めてこの漫画を単体で見ると、意味不明ですね。クリオネももはやクリオネの形をしていなく(歯みたいですね)、得体のしれない生物に思え、自分で笑ってしまいました。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/
第6回『嫌われる勇気』編( 6 )


【一番大事な人がホラ いつでもあなたを見てる I can tell】
(B'z『ultra soul』から引用)
窓とドアを蔦のように覆っていたわたしの「理屈」は、この本と向き合うほどに可視化されていきました。
「どのような行動を起こせばこの状況を脱することができるのか」ということをこれまで散々考えてきましたが、本書を読んでいたら、「見えなくても手探りで蔦をよけ、ドアノブに手をかけさえすれば外に出られる」という当たり前な事実を思い出しました。
もしかしたら、この本を開いたとき、すでにドアノブを掴んでいたのかもしれません。なかったのは、扉を開ける勇気だけ。
アドラー心理学では「信じる者は救われる」とは言いません。
信じるところから裏切られるところまで、すべてが自己責任であると語ります。言語化すると、これもとても当たり前の話ですね。
ですがこれまでのわたしは、信じさせた方、裏切った方に責任があると思っていました。

そしてこの本は、蔦を切ってくれるわけではありません。この本が灯りとなり、照らしつづけてくれるわけでもありません。ただ、横に続く線上で並走している。そして一緒に走りながら
「ガンバレー!」
と、声をかけてくれる。わたしはそれを、やさしい、と感じました。
アドラー心理学では、原因論(例:不安だから外に出られない)を否定し、目的論(例:外に出たくないから、不安という感情をつくり出している)の立場をとるそうです。
ここで、哲人と対話をしている「青年」は、読者のわたしとほぼ同じ反応をしていました(「なんてスパルタなんだ!」という感じです)。しかし、生きていくにはそのような視点も必要なんですね。
八方塞がりのとき、自分が消えるほかないのかもしれない、と思いました。
原因論的な考え方をすれば「ガンバレー!」なんて言葉は出てきません。もうがんばっていますから。寄り添ってくれると思います。それもやさしさです。
しかしそれでは根本的な解決にはなりません。部屋は覆われたまま、「理屈」という「人生の嘘」で体を固めて、動けないまま。
アドラー心理学では、わたしの言い訳や理屈には耳を傾けないでいてくれます。
「あなたがそこにいるのは、そこにいたいからだ」
「あなたがそこにいたくないと願うなら、今すぐにそこから出ることができる」
と言います。そして、
「サポートはしてやるから、がんばってみたらいいんじゃない?」
とも言います。
長年本を読めないと思い込み、読んでこなかったことと重なります。読みたいと願ったら、こうして猛烈に読めていること。読めなかったのではなくて、読まなかっただけなのかもしれない。
本書のページ数でいえばだいぶ序盤なのですが、もうここらへんでファイティングポーズをほどきました。もはや正座です。
ちなみに、「アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します」(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p29)とする場面がありますが、これも目的論に基づいた発想というわけです。
ここは一度読んだだけでは納得できなかった部分です。過去に負った傷であっても、今傷跡として残っているのだから、なぜ否定されねばならないのか分かりませんでした。
アドラー心理学において断固としてトラウマを否定するのは「あなたはその傷に縛られることなく生きることができる」、言い換えると「あなたはいつも自由なんだ」ということを証明するためなのかもしれません。
【第7回へつづく】
中村(すなば書房):アドラー心理学、捉え方によっては毒にも薬にもなりそうですね。「トラウマの否定」には、わたしもエッ!となりました。市村さんの解釈が助かります。
市村:踏み込んだ内容になってきましたね!最近はチャゲアスのことを1日中考える日が多いです。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/
第5回『嫌われる勇気』編( 5 )


わたしはこれまで、世界をバトルロワイヤルだと思って歩んできました。
また、日常のふとしたことで疎外感を抱くことも多々ありました。他者が集う輪に入れないとき、ここには自分の居場所はないのだと絶望したり。絶望の末、絵を「居場所」として描いていた時期もあります。
その頃の絵には、今にはない鋭さがありました。描いていないと生きていないみたいで、だから猛烈に描かなければいけませんでした。
ギラギラした絵はすごい速度で生まれ、劣等感に満ちたわたしは苦しい日々を送ります。
しかし身体は苦しみに耐えられなかったようで、居場所がないというコンプレックスは少しずつ丸みを帯び、絵に対する向き合い方も変化していきました。
今の自分にとっての絵とは、居場所ではありません。生活の営み、所作のひとつでしかありません。描かねばならないものなどない。足りないから描くのではないし、安心したくて描くのでもない。
それは湯を沸かすときにただよう湯気のようなもの。あるいは影とか、足跡とか。そんな表現が今は腑に落ちます。湯気や影、足跡にしては質量がありすぎるので困るのですが。
絵に対してそういう向き合い方になってから、以前より日々は穏やかになりました。
本書でアドラー心理学に触れ、すごく簡潔にまとめてしまうと、「この世界はバトルロワイヤルではない」ということを知りました。
そして、居場所。本書で使われる言葉で言い換えると、「所属感」。「所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくもの」(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.188)、そして「所属感を持っていることは人間の基本的な欲求である」(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.185参考)ということも知りました。当時、居場所がないことについて、自分だけが焦っているのかと思っていました。
それが事実だとすれば、残念ながら、わたしは疎外「されている」わけではなかった、ということになります。自分の意志を持って、その輪からはぐれていただけだったと。
わたしは、いくつもの決断と意志をもって、ただ自発的に生きてきた。そして自分の決断が本意でない方向に向かったとき、他者を敵と見なすことで、その責任を被らないようにしていたのです。
社会を拒み、他者を拒み、現実逃避として絵を描き、居場所としてきたけれど、その世界では生きるために描き続けなければならなく、そこに平穏はなかった。逃げてもいい、でも、逃げ続けるのはつらい。実際は、世界はバトルロワイヤルではないのだから、逃げなくても大丈夫だった、ということです。
もしも世界がほんとうにバトルロワイヤルとなってしまったならば、それは断固として認めてはいけない。抗わなければいけない。わたしはそのように受け取りました。
アドラー心理学では「すべての悩みは対人関係の悩みである」とし 、ひとりの個人が社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるを得ない対人関係のことを「人生のタスク」と呼んでいま す。また、様々な口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を指して、「人生の嘘」と呼ぶそうです。
これらの言葉を用いて今までを辛口で振り返ると、マシになったとはいえ、嘘にまみれた人生であったといえます。
とても厳しい捉え方です。中学生くらいの自分に「それは人生の嘘なんだよ」と伝えても、聞く耳を持たなかったのではないかと思います。
でも、今はそれを、そのままの言葉で、この身体で受け止めたいと願っています。だから本を開きました。
そしてこの本を開いたとき、わたしの心も開きました。
このエッセイを読んでいる方の中にも、心を開いてくれる人はいるでしょうか?
このエッセイのタイトルは、B’zの『RUN』という曲からやってきました。その中の一節を、そのままここであなたに言いたいです。
【荒野を走れ 傷ついても 心臓破りの丘を越えよう
飛べるだけ飛ぼう 地面蹴りつけて
心開ける人よ行こう】
(B'z『RUN』から引用)
先に述べた通り、わたしはアドラー心理学について、その一部を知っただけであるし、つかめたわけではありません。現在進行形で勉強しているので、間違えて認識していることもたくさんあると思います。
だから、ここでは自分の状況と照らし合わせながら、どんな考え方がどんな解釈で「効いた」のかという視点で、『嫌われる勇気』 にまつわることを書いていきます。興味のある方は、引き続きお付き合いください。
【第6回へつづく】
中村(すなば書房):「本」との出会いにも然るべきタイミングがあるのだなと改めて感じた回でした。
市村:「この世界はバトルロワイヤルじゃないんだった」と、公開の前日に久しぶりに読み直していて、思い出しました(情けないことに)。
思ったことを言葉で残しておくと、助かりますね。

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/
第4回『嫌われる勇気』編( 4 )


11月18日、江古田に向かうバスで、窓を眺めながら、B’zの『NATIVE DANCE』をニヤニヤしながら聴いていました。数ヶ月前のわたしの頭には、B'zの「ビ」の字もなかったというのに、気づけば毎日B'zの曲を聴いています。
バスの中でのわたしの顔は、『コジコジ』に出てくる「ハレハレ君が照れて口をモゴモゴさせているときの顔」と、完全に一致していたと思います。
ブックオフで『嫌われる勇気』を買ったのが9月25日。読み終わったのが、10月の前半くらい。いつまでブチ切れて読んでいたのかは、今となっては思い出せません。結構早々にファイティングポーズをほどき「一言も逃すまい」と、目と頭と心を開けるだけ開いて読んでいました。
読んだら初めて知ることがあって、その中でわからないことが生まれました。今度はノートをとりながら「ほんとうに一言も逃さずに読もう」と決意したのが、10月12日。その日から今日まで、『嫌われる勇気』そして「アドラー心理学」、そしてB'zのことを考えなかった日はありません。

【おのれの限界に 気づいたつもりかい?】
(B'z『ultra soul』から引用)
前回に引き続き、合間合間では画像とともに、B’zの『ultra soul』の歌詞を一部引用させていただいております。わたしが『ultra soul』に出会ったのは、『嫌われる勇気』を読み終わってからのことでした。
わたしは人生に躓くとよく音楽が聴けなくなるのですが、八方塞がりの日々を送っていたときもそうでした。
でも、第2回でご紹介した『ときめきメモリアル Girl's Side』の主題歌だけは楽しく聴けていて、特に初代の主題歌をリピート再生していました。B’zの『SIGNAL』という曲です。
たしか、『嫌われる勇気』を読み進め、ファイティングポーズもほどき、目も頭も心もとにかくオープンで読んでいたときのことです。B’zのことなど全く知らないまま『SIGNAL』だけを聴きまくっていたところ
「『恋心 (KOI-GOKORO)』という曲もおすすめですよ」
と教えてもらうことがありました。おもむろに視聴してみると、バーン!!と、大きな衝撃が。
『恋心 (KOI-GOKORO)』と『嫌われる勇気』がわたしの頭の中でカチッと繋がりました。双方が、リンクしているように感じたのです。
すぐに『嫌われる勇気』の勉強ノートに歌詞と感想を書き連ねました。
当時の自分は興奮状態にあったから、尚のことそのような聴こえ方をしたのかもしれません。でも、今でもたしかにそう感じます。
そしてその曲以外でも、根底に流れているものは同じような気がするものばかりで(歌詞だけでなく、メロディやギターの音色も含めて)気づけばB’z漬けの日々を送ることになっていました。
『嫌われる勇気』(アドラー心理学)もB’zも、妙な出会い方でしたが、どちらもこれまでの人生の中で一番と言っていいくらいカッコいい存在です。そしてそれらは(自分の中ではですが)、同じ色をしています。

【かすり傷さえも 無いまま終りそう】
(B'z『ultra soul』から引用)
『嫌われる勇気』は、アルフレッド・アドラーが創始した「アドラー心理学(正式には個人心理学というそうです)」を、青年と哲人の対話形式の物語を通して触れることができる本です。
「触れることができる」と書いたのは、アドラー心理学と「出会う」とか「知る」ことはできるけれど、その内容について理解することは、本書(や、その他のアドラー心理学についての本も含むかもしれません)を読むだけでは難しいのではないかと感じたからです。
著者の1人である岸見一郎さんも、アドラー心理学について、「本を読み、ただ言葉の意味を理解してもあまり意味はないのである」(岸見一郎『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』 p.16)と述べています。
『嫌われる勇気』という本を読むために、最終的にはそれ以外の何冊かの本も、同じ力量を持って読むこととなりました。
家にある埃のかぶった本を引っ張り出して読んでみて、その人の世界観を汲み取り、そこでのものの捉え方や考え方について、自分は今どう思うのか分析してみたり。
また、図書館でアドラー心理学についての(少し専門的な雰囲気の)本を借りてみて、『嫌われる勇気』に書いてあったことを踏み込んで勉強してみたり。それでもまだまだ、理解には至りません。
あんなに本が読めなかったのに、今では「ホワイトノイズ」で耳を閉じてしまえば、数時間ぶっ通しで読書や勉強ができるようになりました。
学生時代、授業中は眠くてたまらなかった記憶しかないのですが、 アドラー心理学について勉強しているとき、全く眠くならないのです。人は「目的」に動かされるのかな、と思いました。
【第5回へつづく】
中村(すなば書房):市村さんの感動を追体験しているようでどきどきします。B'zと「ときメモ」の関係性には相当な衝撃を受けました。
市村:2025年1月13日現在、もはやB'zは「水」のように聴いています。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』
著者:岸見一郎
発行元:アルテ
初版発行:2006年6月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
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第3回『嫌われる勇気』編( 3 )


【祝福が欲しいのなら 悲しみを知り 独りで泣きましょう】
(B'z『ultra soul』から引用)
多くの本には温度がない。それは良いようにも悪いようにも働く。八方塞がりとなったのは、その悪い作用を受けた結果でもあります。
本を開いて「お前に言われたくねーよ!」という気持ちにさせられるのは、本が「物」であることを言い訳に、無意識に自分の沸点を低くしているからでしょう。痛い思いをする前に、さよならができてしまうのです。こちらが喧嘩を投げ出しても、本は何も言いません。「うわ、ダサ!」とか思われることもない。
自分のプライドは傷つかず、かつ、穏便に済むということ。これは本のいいところでもありますが、わたしには悪い作用として働きました。
結局、「やんのかゴラァ!」みたいな、喧嘩をするぞという強い意志でもない限り、持続しないのです。ヘロヘロなときに意志を持ち続けることは、わたしには難易度が高かった。

しかしこの「おまえに言われたくねーよ!」の根源にある「てかおまえ誰だよ!」という謎は、八方塞がりの自分にとって、良い作用として働くはずでした。
今のわたしが生身の人間に説教なんて受けたなら、相手が本来伝えたかったことは、感情や妄想とごちゃ混ぜになって、きっとそのままの言葉では届きません。いびつに歪んで、跡形もないようなこととして受け取るでしょう。
そんなとき、誰だか分からない人からの言葉であれば、皮肉にも、なぜだかすっと入ってくることがあります。温度の他に、距離も重要なのかもしれません。また、活字は活字でしかないから、現実での会話よりも妄想が入り込む隙間が小さい。これも、良い作用のひとつです。
わたしが本に対してブチ切れても、誰かが傷つくことはありません。喧嘩ができるのです。そしてわたしが本を閉じない限り、いつでも開かれているのです。
わたしにとっての本とは、覆われた部屋の中で、おそらく唯一残っている、外界への糸口であるはずでした。インターネットとか生身の人間は、やさしいけど糸口にはなりません。
いつかにわたしがつくった本や紙束の中身は、今となっては嘘っぱちです。でもその嘘っぱちをぶった切った先にあるのは、絶対的な「ほんとう」でした。そう断言できたから、安心して忘れられたのです。あのとき、わたしと本とのあいだには、無条件の信頼関係があったような気がします。

【そして輝くウルトラソウル】
(B'z『ultra soul』から引用)
本を読みたいと願いました。そんなふうに願ったのは、初めてのことです。
しかし、読みたいと願っても、文字は頭に入ってきません。頭の中が騒がしく、視界も環境音も気になります。一行読んでいる間に、やはり、わたしの魂は今朝見た夢のこととかを考えています。絶望です。
それでも読みたかったので、自分と向き合ってみました。インターネットで調べるのではなく、自分の中で何が起きているのか、目を閉じて、耳を澄ます。

気が散るのは、目の前や内側にある情報が多すぎるからかもしれない、と気づきました。
ならば情報源の一つである、音を遮断してしまうのはどうだろうかとひらめきます。
百均で買ってきた耳栓だと甘く、音は筒抜け。めげずに頭を回転させていると、逆に大音量で何かを聴けばよいのではないかと発見します。
メロディや言葉があるとそれにひっぱられてしまうから、とにかく情報のない抽象的な音。「ノイズ」のようなものがいい、と調べてみると、なんと専用の「ホワイトノイズ」という音がありました。
イヤホンを装着し、大音量でホワイトノイズを再生してみると、気になる音は全て消えました。頭の中の騒がしさは、ノイズの「ザーーーーー」に引っ張られ、無効化されていきました。
その状態で活字を追ってみると、なんと、読めました。感動です。
耳から受け取っている情報は、思っていたよりもすごく多かったのですね。
『嫌われる勇気』を読み始めて数ページ、読めることに感動したのも束の間、早速「ハァ?」という気分に。
「世界は信じがたいほどにシンプルなところですし、人生もまた同じです」
(岸見 一郎, 古賀 史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.2)
「アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します」
(岸見 一郎, 古賀 史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.29)
「いまのあなたが不幸なのは自らの手で「不幸であること」を選んだからなのです」
(岸見 一郎, 古賀 史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.45)
「自由とは、他者から嫌われることである」
(岸見 一郎, 古賀 史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.162)
なんだかすごくうさんくさい気がするぞ、と、早くも閉じたくなっている手をなだめます。それでもわたしは本の無温度さを利用して、ブチ切れながらも読み切ってやらねばいけないのです。ちゃんと喧嘩をするために。
【第4回へつづく】
中村(すなば書房):「本と喧嘩する」っていいですよね。それだけ本と、自分と、向き合うことでもあると思うので。
市村:B'zと出会った年の紅白に、なんとB'zが初登場。最高な幕開けでした。2025年は無理やりにでもいい年にしていきたいです。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/
第2回『嫌われる勇気』編( 2 )


【結末ばかりに気を取られ この瞬間(とき)を楽しめない メマイ…】
(B'z『ultra soul』から引用)
「オープンマインド」に引力を感じつつ、しかし暗い日々は続きます。
電車に乗るとドキドキして、叫びそうになるのを堪えたり。通りすがる人から悪口を言われているような気がしたり。ニュースを見ていて、なにもしない自分に嫌気がさします。何を主張すべきか、もうずっと分かりません。いつからか、いろんなことについていけなくなりました。ついていけたことなんてほんとうはなくて、ずいぶん前からはぐれていたのかもしれませんが。
身近な人ともどう接するのが最適なのか判断できなくなってきた頃、強烈な疎外感をおぼえました。
狭い真っ暗な部屋の中で、テンパって動いて、迷子です。
そんな中、気づくと『ときめきメモリアル Girl's Side 4th Heart』という恋愛シミュレーションゲームのプレイ動画を眺めるのが日課となっていました。そこにオープンマインドの気配を感じて。
自分は、「ときめく」なんて感情を持っていないと思っていたので、果たして自分はときめくのか、という、いじわるな興味もありました。
結果、すごくときめくし、すごくハマってしまって、初代までプレイ動画を見漁ることとなりましたが(ときめくほどにマインドがオープンしていくのを感じました)、その中でも4thに登場する本多行(ほんだ いく)という存在が気になりました。
彼は攻略対象のキャラクターの中では少し異質なところがあるというか、大きな枠があるとするならば、そこからははみ出したような(飛び越えたような)存在です。
おもしろいイベントがたくさんあるのですが、その具体的なエピソードよりも、日常会話から垣間見える彼の人間性に感銘を受けました。
たとえば、彼自身ははみ出ていることに対しての負い目はなく
「うんうん。君はそうなんだね、オレはこう!」※
と、いつも明るく楽しそうに振る舞うところ。自身の特性については受け入れるけれど、他者と異なるからといって自らを特別だとは認識していません。
そしてこの台詞のように、自己と他者をばっさり分けて会話を進めていくところ。相手のことも自分のことも、ただそのままにまっすぐに受け入れる姿勢から、自身を含む「人」あるいは(彼は生き物に対しても人と同様な接し方をしていたので)「生き物すべて」 に対しての敬意を感じました。
彼はいつも学年でトップの成績を残しますが、競争心からその結果となっているわけではないというところと、自分の成績への興味は薄く、プレイヤーの成績(正確には、プレイヤー自身)に関心を寄せているところもいいなあと思いました。
彼から感銘を受けまくっていましたが、それはわたし自身が彼と対極にある価値観で生きてきたからなのだと思います。「こうやって生きられたらいいのに」が凝縮されたような人物像でした。
ちなみに、彼自身が抱く恋愛感情のようなものについては
「これは恋愛感情なのか、それともヒトとしての本能なのか、それともあるいは一種の帰属意識なのか」※
と語ります。
ときメモって、イケてる男子とイケてる美女が、朝の登校中に食パンくわえてぶつかって、そこからロマンチックな恋が始まる、みたいな内容だと思っていましたが、こんなに視点が多かったなんて。 現代の恋愛シミュレーションゲームの想定外の広さと深さに驚いてしまいました。
(※記憶の中の台詞であり、正式な引用ではありません)


【夢じゃないあれもこれも その手でドアを開けましょう】
(B'z『ultra soul』から引用)
プレイ動画では飽き足らず(ゲームを買えよという話なのですが、何しろお金がなく不可能でした)二次創作を調べてみると、そこにはとんでもない人たちがいました。
これまで学んできたことを全てこのゲームの考察に生かしているのではないかというほど事細かに分析し、それをベースに創作している方々。もはやそれらは萌えの追求というより、思考実験のように見えます。
二次創作をしている方自身の発言や思想にも感銘を受けることが度々あり、こっそりファンメールを送ってみたところ、お返事をいただいてしまいました。その中で、
「私の作品に通底する倫理観に興味を持ってくれたなら、この本もきっと好きだと思います」
と、教えてくださったのは『嫌われる勇気』という本でした。
ちょうどその頃、すなば書房さんにて、本にまつわるエッセイを連載することが決まります。
何軒もはしごして、最終的には秋葉原のブックオフで、その日の内では最安の900円で『嫌われる勇気』を購入しました。 最初に読む本は、どうしてもこれがよかったのです。この本は、そのタイトルから、オープンマインドの鍵となるのではないかと感じました。
店員さんや周りのお客さんに「この人は嫌われる勇気が欲しいんだね(笑)」と思われているのではと恥ずかしくなりつつ、いそいそと店を出る。今思えば、あのタイトルやデザインは、最初の試練だったのかもしれません。
【第3回へつづく】
中村(すなば書房):エッセイの打ち合わせで「ときメモ」について熱く語ってくれた市村さんが忘れられません。かっこよかったです。
市村:文章中には書けませんでしたが、「スリル」(布袋寅泰)に感動して、毎日聴いていた時期もありました。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/
第1回『嫌われる勇気』編( 1 )
はじめまして。市村柚芽(いちむら ゆめ)といいます。生活の中で、よく絵を描いたりしています。本はあまり読まないのですが、仲良くしてくださっているすなば書房さんで、本にまつわるエッセイを不定期で連載させていただくこととなりました。
さて、初回である今回は、このエッセイのために、とても久しぶりに読んだ本について書いています。とんでもなく長くなってしまったので、この本についての文章は、いくつかにわけて連載します(分割する前に、ひとつの文章として書き終えています)。
これはエンタメでもなく、日記でもなく、エッセイですから、先に結末を書いてしまいます。運命的な本と出会い、超元気になって、 無敵かのように思って、最後、結局また躓きます。 途中のわたしは調子がいいのですが、本文を書き終え、前書きを書いている今「ドン底」にいるので、あまり真に受けないで欲しいなと思い、注意のために述べておきました。
また、今回は、とある大好きな曲の歌詞とともにお送りしたく、合間合間に挟まっている画像とともに、その曲の歌詞を一部引用させていただいております。
ずいぶん気合いが入ってしまったのですが、2冊目の本からは、あっさりした文章となるかもしれません。ご了承ください。ではでは、これからよろしくお願いいたします。

【どれだけがんばりゃいい 誰かのためなの?】
(B'z『ultra soul』から引用)
本棚には読んでない本がぎっしり詰められています。なんならはみ出て積まれています。積読という言葉があるらしいですが、そんな言葉を使うのもおこがましいくらい、ただ積まれています。埃まで 。
一般的には「本」と呼ばれるであろう紙束を、自分も作ったことがあります。
多分わたしは、本が好きというよりも、紙を束ねることが好きなのです。そして、複製物という点において、1枚の絵よりも社会性を帯びた印象があり、頼りにしているのだと思います。
その「本」と呼ばれる紙束は、1人でつくったことも、複数人でつくったこともあります。複数人でつくったときには「紙束」ではなく「本」となって、感動したのでした。
紙束でも本でも、そのどちらをつくるのも、簡単なことではありません。作業的にも、精神的にも、金銭的にも。 本をつくる苦労を知っています。なのに、この態度なのです。
そもそも、なぜ家に読まない本が増えていくのか。心当たりはあります。
最近は、情けないことに、「読みたいな」とか「欲しいな」という 、真っ当とも言えるような理由より、「何も買わないでお店から出るのが申し訳ない」みたいな、微妙な理由で本を買うことが多いのです。多分、それが大きいと思います。

そんなこんなで本とは縁遠い生活を送っていましたが、気づくとわたしは、八方塞がりになっていました。とにかく塞がれているのです、四方八方。
小さな頃から少しずつ練ってきた「言い訳」はいつからか「理屈」 に進化を遂げ、それがとうとう窓もドアも覆ってしまいました。電気のスイッチがどこにあるのかすら見えないし、この部屋には何があって、何がなかったのかも覚えていない。覆われる前の、明るかった頃に片付けておけばよかったのでしょう。

【分かっているのに 決意(おもい)は揺らぐ】
(B'z『ultra soul』から引用)
もうだめだー、と思いながら生きているとき、いつからか「オープンマインド」という言葉が、頭にこびりついていました。はじめてその言葉がよぎったのは、たしか、友人がカラオケでMr.Childrenの曲を熱唱しているのを見ていたときのことです。
わたしはカラオケにはほとんど行ったことがありません。なぜなら、人前で歌うのが恥ずかしいからです。それに、流行りの曲も、 誰もが口ずさむような曲も、ほとんど知らないからです。学生時代はいわゆる大衆向け音楽を毛嫌いしていました。
カラオケに興味のない自分がなぜその友人にはついて行ったのかというと、彼女の歌声が好きだからです。ライブに行くような心境です。
彼女がMr.Childrenの知らない曲を熱唱しているとき、 わたしは歌詞が表示されているTV画面を見つめます。画面を見つつ彼女の歌声を追いかけると、どんな人が、どんな時代に、どんな気持ちで作ったのか、なんにも知らない曲の歌詞が、 言葉として頭に入ってきます。
家の本に埃まで積まれているのは、もちろん、本を開かないからです。活字を追っていると、気が遠のいて、気がつくと別のこと(夕飯のこととか、クリオネのこととか、返していないメールのこととか)を考えてしまうため、ほんとうに読めないのです。
また、読めたとしても、本に対して「お前に言われたくねーよ!」 みたいな感情が生まれることがあって、耐えてまで読む必要はないだろうという判断のもと、途中退出してしまうのです。
だから歌詞を読むことは、とても久しぶりの読書のようでもありました。
歌詞を咀嚼しつつ聴いていると、彼女の伸びがよく誠実な歌声のむこうに「なんかすごいこと歌ってるのかも?」という引っかかりを発見します。その瞬間「この、なんかとんでもない曲を、こんなふうに、ここでこうして歌えること」のすごさを実感し、ハッとしました。
そのときわたしの頭に「オープンマインド」という言葉がよぎったのでした。
引き続きわたしは一切歌いませんが、よく歌うらしい別の友人(と呼ぶには気恥ずかしい存在ですが)も交えて、再びカラオケに向かうことになりました。物静かでクールな印象を受ける方なので、歌ったらどんなふうになるのだろうとワクワクしながら。

TM NETWORKの「Get Wild」を予約。TV画面には、公式MVが映し出されました。
彼はマイクを握ると、すぐにTVの横に立ちました。イントロ部分でメンバーが波のような動きで踊っているシーンがあるのですが、なんと彼は、それをしていました。
様々な動作を通してそのMVを再現し、そしてまるでTM NETWORKのメンバーの一人になったかのように、力強い歌声と動きで熱唱してくれました。その姿は圧巻で、ほんとうにすばらしかったです。少し涙が出ました。
歌声が好きだとか、音程が取れていてうまいとか、それもあったけれど、多分そういう次元ではない部分で、つまりわたしは彼の「マインド」に痺れたのです。まさにオープンマインドです!
【第2回へつづく】
中村(すなば書房):いよいよ連載がはじまりました。さて、市村さんはどんな本を手に取るのでしょうか?たのしみですね〜。
市村:落ち込み気味の現在のわたしが読み返すと、何がオープンマインドだよという気分です。
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/
