第11回『嫌われる勇気』編( 11 )
【夢じゃないあれもこれも 今こそ胸をはりましょう】
(B'z『ultra soul』から引用)
一周目に読み終わったとき、分からないというか、腑に落ちない、モヤモヤが残ったような感覚がありました。
本書は、ひとつの物語としても読むことができ、感動や感傷があります。わたしはそれらに引っ張られ、重要である細部のことを忘れ、だんだん何にモヤついているのかもよくわからなくなりつつ、物語の結末を読み終えてしまったのでした。
ノートを取りながら注意深くふたたび読んでいくと、取りこぼしていた箇所や、歪曲して受け取っていた箇所があることに気づきます。
いろいろな言葉や、初めて知る考え方にたくさん触れていれば、その細部に目を向けたり、あるいは全体を知ろうとしていくうちに、どちらかが抜け落ちてしまうことは仕方がないことなのだと思います。
これは日常での他者との会話や、出来事全般にも言えることですが、本は、こうして何度でも読み返せるから、ありがたいものですね。
ここでの言葉による認識の歪みは案外深い溝であり、アドラー心理学の核にあたる部分ですら、異なる姿として映る可能性があるのではないかと思いました。
だから、ここで、わたしが誤って読んでしまったと思った部分について(今でも間違えはあると思いますが)書いていきます。
前々回「『共同体感覚』というゴールにいたるまで、アドラー心理学ではどのようなアプローチを提唱しているかということについても、本書では具体的に語られています」と書きました。
「自己への執着(self interest)を他者への関心(social interest)に切り替え、共同体感覚を持てるようになること。そこで必要になるのが『自己受容』と『他者信頼』、そして『他者貢献』の3つになります」
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.226)
これは「共同体感覚」を持つためには何が必要なのか、ということを、大きな流れとともに説明している文章です。ここで使われている言葉についても、本書では詳細に語られています。
つまり、対人関係のゴールである「共同体感覚」を得るには、「自己受容」と「他者信頼」と「他者貢献」というアプローチが必要であるということです。
ちなみに、この3つの要素は円環構造として結びついているもので、ひとつとして欠かすことはできないそうです(同書『 嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.242参考)。
この「ひとつとして欠かすことはできない」という点をしっかり理解できていれば、共同体感覚、あるいはアドラー心理学についてを、ある程度適切な姿で受け入れることができるのだと思います。
しかし、わたしが一周目に読んでいたとき、主に「他者信頼」と「他者貢献」について、具体的にはその言葉の響きに、違和感をおぼえていました。
「他者信頼」に関する箇所は本書ではだいぶ後半にあたるページなのですが、読んでいるとき、ファイティングポーズを構えていた序盤ぶりに「なんか腑に落ちないぞ!」と引っかかりました。急に説教じみたことを言いはじめたぞ、と。
最初に感じたうさんくささを、またここでも感じてしまったのです。一周目に読んでいたときは、その「なんか嫌な感じ」に引っ張られて、聞く耳を持たず、心を少しだけ閉じて読み進めていたのかもしれません。
ここでも「青年」が似たようなことを本の中で言ってくれています。
「あらゆる他者を信頼し、どんなにだまされても信じ続けろ、お人好しのお馬鹿さんであり続けろというわけですね? そんなもの、哲学でも心理学でもなく、宗教家のお説教ですよ!」
(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.233)
青年ブチ切れ、わたしも久しぶりにブチ切れです。
これに対して「哲人」は、
「ここは明確に否定しておきましょう。アドラー心理学は、道徳的価値観に基づいて『他者を無条件に信頼しなさい』と説いているわけではありません。無条件の信頼とは、対人関係をよくするため、横の関係を築いていくための『手段』です」
(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.233)
と語ります。そしてこうも付け加えます。
「もし、あなたがその人との関係をよくしたいと思わないなら、ハサミで断ち切ってしまってもかまわない。断ち切ることについては、あなたの課題なのですから」
(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.233)
他者信頼とは、「道徳的価値観に基づいて説いているわけではない」ということ、そして「横の関係を築いていくための『手段』 でしかない」ということ。この部分は絶対に忘れてはならないポイントであったと今は感じます。
【祝福が欲しいのなら 歓びを知り パーっと ばらまけ】
(B'z『ultra soul』から引用)
その後に続く『他者貢献』については、こちらも一周目に読んでいるとき、自己犠牲を勧めているような印象をおぼえました。
また、そもそも承認を求め生きてきた身からすると、他者から何かしてもらうことは、時として暴力となります。それを知っていたから、安直な貢献には注意を払って生きていたのです。
ここで語られている貢献もその安直な貢献に思え、これはまったく肯定できる要素ではない、と、当時は感じたのでした。
『他者貢献』とは、
「仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすること」
(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.237)
と説明されていますが、「青年」はここでも引っかかってくれていました。自己犠牲的な生き方を推奨しているのか、と。
しかしここで「哲人」は、こう語ります。
「他者貢献とは、『わたし』を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ『わたし』の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです」
(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.238)
『他者貢献』は、あくまで「自分のため」であるということ。だから、自己を犠牲にする「必要」がないのだと。
著者のひとりである岸見一郎さんは別の書籍でこうも述べています。
「アドラーは、しかし、自己犠牲を勧めているわけではない。たしかに自分の人生を他者のために犠牲にする人はいる。アドラーはこのような人のことを『社会に過度に適応した人』といっている(『子どもの教育』 一六三頁)。もっともこのことは自己犠牲的な行動や生き方を批判しているわけではなく、たしかにそのような行動や生き方は美しいのだが、そのことを他の 人に勧めることはできないということである」
(岸見一郎『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』 p.27)
そして先に述べたように、「自己受容」と「他者信頼」と「他者貢献」は円環構造になっていて、ひとつとして欠かすことはできないものである、という点。
繰り返しているようですが、「他者貢献」をするときには「自己受容」と「他者信頼」は必須であったということです。ただそのままの自分を受け入れ、ただそのままの相手を受け入れ、無条件に信頼できたときにこそ、他者貢献はなされるものなのだと。
その関係性の中でなされる貢献とは、安直な貢献なのでしょうか。相手がそれを暴力だと捉えるかは相手の課題であり、自分ができることは、相手のことをほんとうに想うこと。
しかし実際の相手のほんとうの気持ちはわからない、だからここでもあきらめは必要で、対人関係はたしかに課題の分離から始まります。
わたしは水に浮かんだ言葉の表面を拾っては、そこでの違和感に悩まされていたのだと気づきます。
そしてもう一つ、『他者貢献』にまつわる、個人的にはとても重要であると感じた認識があります。
「他者のことを『行為』のレベルではなく、『存在』のレベルで見て行きましょう」
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.209)
「われわれは『ここに存在している』というだけで、すでに他者の役に立っているのだし、価値がある。これは疑いようのない事実です」
(同書『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.209)
たとえば他者を「行為」のレベルで見ていたら、他者に貢献していない人のことを、どこか否定的に捉えてしまうかもしれません。それは、かつての自分が潜在的に抱いていたような、差別的な倫理観にも繋がりかねないのです。
しかし、そもそも他者を「行為」のレベルで捉えているうちは、「自己受容」も「他者信頼」もなされていない段階であるといえます。「共同体感覚」からは遠いところにいる。
「他者のことを『存在』のレベルで見よ」とする姿勢は、本書の中でも特に好きな考え方です。好きなのに、「貢献」という言葉のイメージから、どうしても「行為」のレベルで想像してしまい、違和感が生じていたのでした。
最初はボタンの掛け違いのような些細な認識の歪みでしたが、結果としては大きく異なる結末があらわれることになります。それがその人や周囲の人によい作用を及ぼすのであれば良いけれど、そうでないのなら、認識の歪みはできるだけ正していくよう努めるべきだと感じます。
アドラー心理学における言葉の受け取り方について、岸見一郎さんはこうも述べています。
「言葉の定義を覚えるというより、文脈の中でどのような意味で使われているかに注意を向けることもとても大切であるとも考えることができる」
(岸見一郎『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』 p.16)
「本を読み、ただ言葉の意味を理解してもあまり意味はないのである。書かれていることは理解できるだろうが、その理解は、いわば頭の中に地図を思い描くことでしかない。実際にその地図に従って、歩いてみるしかないのである。実際に地図に記されている通りに歩いてみてこそ意味がある」
(岸見一郎『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』 p.16)
今回、本書やその他の書籍を読んでいて、言葉を受け取るときには、とにかく静かに耳を傾け、全体を見ること、そして言葉の内側にあるものを想い、目を閉じ、耳を澄ませ、この手で受け取ることが大切なのだと学びました。
信頼とは無条件に結ぶものですが、一方的なもの、軽薄な態度では、成立しないのだと思います。
ここで鍵となるのが「オープンマインド」であり、今回の読書体験を通じてその重要さを思い知りました。
徹底的に喧嘩をしてやるという姿勢は、本に限らず、他者と関わるとき、そのときによるものではありますが、ある場面では誠意として必要なのだと思います。
【第12回へつづく】
中村(すなば書房):貴重な読書体験の共有ありがとうございます…!市村さんの心の揺らぎが伝わってきます。読後しばらく噛み締めていました。
市村:東京でも雪が降りました。
ココアを飲み、眺め…。緑茶を飲み、眺め…ていたら、日が暮れました。ボォーっとした冬の1日でした。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月
『アドラーを読む 共同体感覚の諸相』
著者:岸見一郎
発行元:アルテ
初版発行:2006年6月
市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/