第12回『嫌われる勇気』編( 12 )

 

【ホントだらけあれもこれも その真っただ中 暴れてやりましょう】
(B'z『ultra soul』から引用)

 これまで触れてこなかったけれど、アドラー心理学の中で重要なアプローチのひとつである「勇気づけ」のことも、少しだけ書いていきます。
 実は、前回の記事でわたしが書き連ねたこの文章の中にわたしが思う「勇気づけ」を潜ませていました。

「アドラー心理学では、わたしの言い訳や理屈には耳を傾けないでいてくれます。
『あなたがそこにいるのは、そこにいたいからだ』
『あなたがそこにいたくないと願うなら、今すぐにそこから出ることができる』
と言います。そして、
『サポートはしてやるから、がんばってみたらいいんじゃない?』
とも言います。」

 これはだいぶ雑な表現なのですが、この文章の中での勇気づけとは「サポートはしてやるから、がんばってみたらいいんじゃない?」の部分にあたります。
「自分ができることは、相手のことをほんとうに想うことだけである」と述べましたが、実はもうひとつ、できる(かもしれない)ことがあります。それが「勇気づけ」です。
 本書では、

「横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では『勇気づけ』と呼んでいます」
(岸見一郎, 古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 p.202)

と説明しています。
 大前提に課題の分離があり、介入はしない。そして、ゆるす・ゆるされるという縦の関係ではなく、対等な横の関係がある。その上で、上から命令したり、叱ったり褒めたりするのではなく、本人に自信を持たせるという目的のもと、「自らの力で」課題に立ち向かっていけるように働きかけること。そういうアプローチのことを「勇気づけ」と読んでいるそうです(p201参考)。

 本書では、度々こんなことわざが出てきます。

「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」

 本書を読み、勉強しているうちに、わたしがやさしいと感じるものとは、まさにその姿なのかもしれないと気づきました。
 具体的に言えば、あきらめること…課題の分離。そして、水辺まで連れていくこと…勇気づけ。そして、まだ完全な理解にはいたっておりませんが、共同体感覚を規範的な理想とする姿勢。
 この気づきはとても大きいものでした。

 自分が「やさしい」と感じるものとは、どういう姿をしているのだろう、と、長年考えていました。
 他者が「やさしい」と謳っているものに触れたとき、想定外に傷ついたことがあります。そんなときいつも、誰かにとってのやさしさをそのままの形で受け取れない悔しさと、その輪に入れないさみしさや、自分は異常なのかもしれないという強い不安を感じてきました。自分を保つために、それを「やさしさではない」と決めつけたり。

 しかし自分自身も他者に向けて、同じことをしているであろうこと。その無自覚な加害性の、自覚だけはありました。
 でもその意識は、都合が悪くなれば簡単に忘れてしまいます。忘れたふりをしてしまいます。自分だけが被害者となったような気分になると「人生の嘘」を、まるでほんとうかのように語ることができ、楽だったのです。

 「ほんとうのやさしさ」ってなんだろうかと考えてみると、「裏返らないもの」とかではなく、多分、どれもほんとうなのだろう、と、思います。
 たとえば、本書では徹底的に課題の分離をし、介入しない・させないということを語っていますが、誰かにとっては介入こそがやさしさであり、勇気づけは暴力となる場合も、わたしはあると思います。

 すべてのやさしさはほんとうである、ということは、ずっとぼんやり思ってきたことではあるのですが、この本を読んで、確実なものとなりました。受け取る人によって、姿を変えたり、裏返ることもある、というだけで、それが嘘であることにはならない。「わたし」が受け取ったときに、そのままの姿で届くものだけがほんとう、なわけではない。
 なぜなら、「わたし」と「あなた」はちがうから。「ちがう」ことを受け入れて、「わからない」ことを受け入れてこそ、対人関係は始まるものだから。

 しかし、上で述べたように、やさしさをふりまくことは、知らぬ間に他者の心をナイフで刺していることでもあるということ。それも事実であり、むしろそれは、できるだけ自覚しておかなければなりません。
 たとえば複数人でひとつのものをつくるとき、わたしはその場合においてのみ、ある程度の「介入」は必要だと考えています。意識的に、自分が思う「やさしさ」から離れた行為をしなければなりません。そういうとき、その自覚とコミュニケーションは大切です。
 だからとにかく、「わたし」におけるやさしさとはなんなのか、知る必要がありました。
 こうして考えてみると、結局、それがほんとうか嘘か、なんていうことは、それほど重要ではないように思えてきます。

 それをあきらめることは、それでもわたしにはできません。本書に出てきた言葉を使うなら、「傾向性への抗い」あるいは「優越性の追求」なのかもしれません。
 そのさなか、きっと加害は避けられません。ならばやはり、なるべく自覚して生きていきたい。
 そしてそこには、はっきりとした境界線があるわけでもないということも、おぼえておきたいです。
 これはやさしい、これはやさしくない、とする前に、もっとぼんやりした部分、識別できない部分にこそ注意を向けることが、実はいちばん大切なのではないかと考えます。抽象的になってしまいましたが、わたしたちは敵ではないということを念頭において、相手がなにを語っているか、静かに耳を澄ませていたいということです。喧嘩はそれからです。

 ちなみに本書では、「他者を仲間であるという意識を持ちましょう」と語っていますが、ここも誤解していはいけない点です。
 アドラー心理学における「仲間」とは、心の距離が近い大親友、みたいなものを指しているわけではありません。裏返ることがある「信用」の関係の他者、ではなく、無条件に「信頼」できる他者のことを指しています。
 個人的には「仲間」という言葉には、友だちとか親友みたいな、親しいイメージとともに浮かんできてしまうので、その言葉を使うことに若干の抵抗があります。だから今は、「敵でも仲間でもない、 ただ『その人』として他者と対峙しよう」と解釈しています。

【第13回へつづく】

 

中村(すなば書房):饅頭を食べながら「やさしさ」について考えていたら夜になっていました。

市村:昨日は電車の中で「MOVE」(B'z)を聴いていてぽろりんと涙が。そしてしばらく前に自分が書いたというこの文章を読んで「ハッ!!」と。最近の自分の甘さに喝を入れてもらえたような気がしました。

 

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』
著者:岸見一郎, 古賀史健
発行元:ダイヤモンド社
初版発行:2013年12月

 

市村柚芽/いちむらゆめ
生活の一部として絵を描く。
好きな音楽はデヴィット・ボウイの「Starman」。
HP:https://www.ichimurayume.com/